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吉川武彦

2013年 10月 29日

吉川 武彦(キッカワ タケヒコ) 1935年10月30日生、78歳
※2013年10月30日現在

  • 清泉女学院大学1学長・清泉女学院短期大学/学長
  • 国立精神・神経医療研究センター精神保健研究所/名誉所長
  • 中部学院大学/名誉教授
  • 精神科医

<略歴>

  • 臨床、教育、研究、行政、地域活動に関わった。
  • 琉球大学教育学部教授、東京都武蔵調布保健所狛江保健相談所長などへて国立精神・神経センター精神保健研究所所長から中部学院大学大学院人間福祉額研究科教授。
  • 現在、
    • 東京国際音楽療法専門学院/学院長
    • 社会福祉法人江古田明和会/理事(前理事長)
    • 日本精神衛生学会/常任理事(元理事長)
    • 日本学校メンタルヘルス学会/常任理事
    • 日本臨床死生学会/理事、

    など

<著作>

1998年以降

とここまでが定型的自己紹介。

以下はずっこけ自己紹介。

1935年石川県金沢市に生まれ父親の転勤で広島県広島市へ。原爆に遭う直前に東京に転居したが広島で遊んだ幼なじみはすべて失った。小学校3年の時に学童集団疎開で長野県へ。ここで文字通りの飢餓体験をした。戦時中は教師から折り目をつけてもいけないと言われ、字を書き入れることすら禁止されていた教科書に、教師から墨を塗れといわれたことが学校問題や教師問題への問題意識の始まり。

敗戦後東京に戻り丸焼けの学校のコンクリート基礎の上で授業を受けたが、当然のこと、雨の日はお休み。平和憲法を手にしたのが中学1年、ふるえるような思いで頁を繰った。そのわが国がきな臭くなったのは1950年の中頃から。とくに1950年の保守合同を経て自民党一党独裁の国になってから、警察機動隊がつくられ自衛隊が合法化するという動きが出た。日米安全保障条約改定反対というデモがあちこちで組織され学生運動が激しくなりそこに身を投じた。その間にあっても泳ぎに人生をかけ、日本泳法を習得し得業の巻物を受け、監督になった。後に免許皆伝を受け、福祉版を務めた。

インターンを終えたあと国家試験に合格したあと手先が器用だったので先端医療の脳外科医か心臓外科医になろうとも考えたし子どもが大好きだったので小児科医になろうかとも思った。舵を大きく曲げてのは東京都立松沢病院の精神科医。この精神科医が木造病棟を歩く患者さんの足にボロ布を巻き、これで廊下の拭き掃除をさせているといったところだった。彼は、徘徊という無目的で廊下をあるく患者が、廊下の拭き掃除をさせているととくとくとして演説をぶった。それを聞いて「キレ」た私は、精神科医になる決断をした。

そのあとは糸の切れた凧。

大学院在学中に群馬県の病院、350床の病院の管理職を務めて病院改革をめざし、長野県立病院では退院促進と地域ケアを目標にした医療に取り組み、研究所入りしてからは精神障害者デイケアの研究を行い、厚生省に飛び入りして課長補佐を務め沖縄の本土復帰に携わり、琉球大学に医学部をつくるというので呼ばれて沖縄に住んだ。沖縄に行ってみればまだ土地も買っていないというので教育学部からの声かけもあって障害児教育学科の主任教授を務めたがそのときまで38歳、学生運動をやっていた経験を買われたちまち学生部長に。この間、ゴルフを始めたが毎日練習所に通いほぼ一年でハンディキャップはシングルに近いところまでなった。1日に3か所のゴルフ場を回るというアクロバットなこともやった。

父親が認知症、なんて言わずに「ボケ」といった方がすっきりするが、ボケたので急遽東京に転じ保健所の医師になり沖縄でやっていた地域活動を東京に移し替えるという我流の地域活動を開始した。これが大受けで、当時東京都にあった保健所・保健相談所105か所ほどの全部を回るという離れ業を見せ保健師たちから「尊敬」を集めた。そこへ研究所から呼び出しがかかり月給は半分になったが再び国家公務員研究職となったがときの本省課長と意見が合わず研究所を辞し、国立の病院に転じたが研究所からの再々どの呼び出しで所長を務める羽目になった。研究所の所長は2001年1月の省庁再編でポストの明け渡しを求められ、失業。

ぶらぶらしているときに救う神あり、福祉の大御所、窪田暁子さんから小さな大学だけどこんど大学院をつくることになったのできてもらえるかとの打診あり、中部学院大学大学院教授に。失業中の私を拾ってくれたところには忠誠を尽くすこと10年。失業中に声をかけていただいた東京国際音楽療法専門学院では非常勤の学院長、2000年の社会福祉法制定で社会福祉法人設立要件を緩和してつくったのが社会福祉法人江古田明和会、その理事長も引き受けた。もちろんこれは無給、それどころか持ち出しが大きかった。理事長の席を譲り、少々楽になっった。

と思ったらなんと長野にあるカトリック大学の学長に、という話。お断りし続けたが粘り腰に負け、とうとう承諾。「これが最後のお願いです」というお電話をいただいたのが2010年10月30日、つまり私の75歳の誕生日。「え~い。これもご縁だ」とかんがえてOKのお返事を差し上げた。こうして東海道新幹線通いから長野新幹線通いに鞍替え、いまに至っています。